謹慎伏屋由来記

甲州と人間今村大将

 甲斐の三名山を一望に見る日本列島の臍に相当する韮崎市に日本軍唯一の名将今村将軍の謹慎伏屋が世田谷区から移築されて十二年となる。これは中込藤雄のたっての希望が実現したものであり、それは時の第八方面軍司令官と若き将校との戦友愛が身を結んだ一つのロマンと云えよう。
 今村将軍は仙台の生まれで五歳の時、裁判官の父母と大勢の子供と共に甲州富士川の辺りの鰍沢地方裁判所に赴任、数年後甲府市の富士川小学校に転校、卒業甲府中学に入学一年間学ぶ。此の間多くの恩師、知己、学友に恵まれる。校長は大島正健、一級上に石橋湛山、同期に笠井重治等も居た。
 今村将軍が戦犯として十年の刑に服役中の或る日、古守は戦友梅岡学州と共に巣鴨の今村将軍を見舞った。将軍は非常に喜ばれて申すには「今村は少年時代甲州に七年間居り多くの恩師と、山梨の方には大変お世話になりました」と。後に将軍の出所を待ち毎年山梨ラバウル会を開き将軍を囲んで旧情を暖めた。富士川小学校の校友も参加、将軍が少年時代眼にした山河を再び眺めることは楽しいという。思えば将軍が逝去された前日所用で山梨に来られた。これぞ世話になった甲州の山河に最後の別れを告げるためだったに違い無い。右手に歎異抄を左手に聖書を手にして三軍を叱咤した人間今村均の面目躍如たるものがある。

平成十四年五月二十七日 謹慎伏屋移築記念日
人間今村大将を偲ぶ会 建之
撰文 古守豊甫

撰文の古守豊甫氏は第六十五旅団工兵隊付軍医中尉
古守病院長(甲府)


今村均大将謹慎伏屋移築の由来

 先の大戦時に南太平洋の作戦に於いて今村均大将は至誠帰一の統率と機略先見の作戦指揮とに依り軍司令官の使命を完遂したことで名将と評価されたが、大将がその真価を発揮されたのは寧ろ戦後であった。
 大将は戦勝各国が戦後判定した戦争犯罪法は不法不当世界人道に背く復讐裁判であると断じ、部下戦犯者の罪科は全て大将自身にあると主張し、志願して収容所に入り十年の禁固刑を受けた。
 一時内地で服役することになったが再び申出て南海の孤島マヌスに移り部下戦犯者と苦難を共にした。
 刑期満了後自宅の一隅に此の謹慎室を立て、此の自らを幽閉して敗戦の責任を深く反省し日本再建の方途を思案し、また殉国勇士の慰霊の行脚を続けた。
 当地に謹慎室を移築したのは、大将がその少年時代山梨の県下で修学した因縁による。
 大将は明治十九年仙台で生まれ昭和四十三年東京にて没、行年八十二歳。

元第八方面軍参謀 太田庄次 撰文
平成二年五月吉日 斉藤峡邨
今村大将記念事業の会 剛ラバウル会 山梨県ラバウル会 建立

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