十三階慰霊塔 建設之言霊

歩兵第一四九連隊(東部六三部隊)が創設されるや
私は初代連隊旗手として昭和十五年十二月三日山田卓爾連隊長と共に宮中の親授式に参内した
九年余の軍人生活の内五年間を甲府連隊に勤務し
初年兵補充兵下士官候補者幹部候補生の訓練また学校配属将校として青少年学徒の育成に励む
この勇士達は軍旗の下に又他の部隊に転出した大陸に南太平洋の島々に転戦苦斗遂に護国の魂となる
以来茫々四十四年 霊魂は今尚地に海に咽び泣いていよう
これらの英霊及び韮崎市出身の大東亜戦争戦没者九七三柱供養の為建之

平成元年秋彼岸
韮崎靖国之家斎主 正七位勲六等 中込藤雄
謹書 妻 中込梅香
彫刻 戦友 石坂義雄

十三階慰霊塔 建設之言霊

謹慎伏屋 保存主

中込 藤雄 (なかごめ ふじお)

正七位勲六等瑞宝章 陸軍大尉

年月日 事 項
1917(大6)年7月 山梨県韮崎市で生まれる
1935(昭10)年3月 山梨県立韮崎中学校(現韮崎高校)を卒業(第八回)
1938(昭13)年1月 昭和12年徴集現役兵として留守第一師団歩兵第四九連隊留守隊(甲府連隊)に入隊
1938(昭13)年4月 第一師団歩兵第四九連隊(満洲国/神武屯…現中国東北部)に転属
1938(昭13)年5月 昭和12年徴集歩兵科幹部候補生に採用
1938(昭13)年7月 歩兵科甲種幹部候補生(幹候二期)に命ず
1938(昭13)年9月 陸軍予備士官学校(仙台)に入校
1939(昭14)年3月 陸軍予備士官学校を卒業(第一期)
見習士官
歩兵第四九連隊留守隊(甲府)に転属
1939(昭14)年11月 任陸軍歩兵少尉
予備役編入臨時召集
1939(昭14)年12月 第十二次特別志願将校に採用
昭和15年第一次甲種学生として陸軍戸山学校(東京)に入校
1940(昭15)年4月 陸軍戸山学校を卒業
1940(昭15)年8月 第六一独立歩兵団歩兵第一四九連隊(東部第六三部隊/甲府)初代連隊旗手
1940(昭15)年12月 軍旗親授式参内
1941(昭16)年8月 任陸軍中尉
1941(昭16)年12月 学校服務として山梨県立身延中学校(現身延高校)、同峡南農工学校(現峡南高校)配属将校
1942(昭17)年11月 第八方面軍参謀部附(ラバウル)
1943(昭18)年12月 将校学生として陸軍士官学校に入校
1944(昭19)年8月 陸軍士官学校を卒業(丁種学生第四期)
南方軍教育隊附(蘭印/スマトラ…現インドネシア)
1944(昭19)年9月 任陸軍大尉
1944(昭19)年10月 昭和14年勅令第731号に依り現役編入(准五四期)
1945(昭20)年2月 第七方面軍司令部附(昭南市…現シンガポール)
1945(昭20)年4月 第二九軍司令部附(マライ/タイピン…現マレーシア)
兵補指導班長、ペナン島海軍部隊陸戦教官
1946(昭21)年6月 レンパン島から宇品に上陸
復員
1990(平2)年5月27日 今村均大将謹慎伏屋を東京都世田谷区より
山梨県韮崎市に移築
  権禰宜
人間 今村均大将を偲ぶ会 会長
2014(平26)年5月27日 死去。享年98歳(満年齢96歳没)
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